こんにちは、くもりです。
自分について考えるときに、よくテーマにするのは自分の最後のことです。
「メメントモリ」
「死を忘ることなかれ」
人に感謝するときに思うことが、この人が生きているうちに感謝を伝えたい。
死ぬ前までに伝えたい。
家族ってとても、近くにいて普段してもらっていることをあたり前に思ってるけど、
それが尊いことだと感じるときって、大抵失った後です。
死を意識したとき、終わりが見えたとき、それまでの当たり前が覆って見方が変わります。
それは、なぜか、、。
いままで、生きてなかったから。
自分の人生を本気で考えず、周囲の人間や環境に流されてただ、息をして、食って、寝て、娯楽を享受し、いやなことに脊髄反射的に対応していただけ。こんな人は大勢いる。これは、社会的に成功しているかどうかは関係ない。自分の才能に振り回されている人間だって環境と才能と運のどれかがあれば、成功している。でも、死には誰だって勝てない。今のところは、、。
結局、行きつくところは死のみ。
行きつく場所が決まっているのに、その瞬間を想像していない。その瞬間をどう過ごしたいかで、自分のやりたいことを決めればいいのに。そこから逆算している人は、あまりいない。まあ、死は瞬間の出来事だから、どうでもいいから考えてないのかもしれないけど。
でも、死ぬ前ってやりたいことがたくさん出てくるらしいから、今から考えておいても損はないだろうね。
日本の自殺 孤独と不安の解明(大原健士郎 著) / 文生書院 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」
上の本とか見てると、昔の日本も、今の日本もそんなに変わらないのかもしれない。
私は、最後は一人で死にたいと思ってる。
誰かに、迷惑をかけたくないし、基本的に誰かに認知してほしくない。
全然知らない人ならいいけど、親しい人に最後を知られたくない。
そして、そんな最後を迎える決断をして実行した自分を気に入ったまま亡くなりたい。
幼い時に、呪いって書いてふざけて遊んでたら、縁起が悪いから怒られた記憶がある。
でも、死や呪い、暴力など、社会的にふれてはいけないものについて、教えることは重要だとおもう。
なぜなら、知らないことが一番恐ろしいことだから。
知らないことを、一生知らないまま終えることができれば、それは幸せだ。
昔の普通の人はそれで、一生を終えることができた。
でも今の人は、無理だろう。エアコンのない生活は無理だし、冷蔵庫や洗濯機だってない生活は無理だろう。
それと同様で、死について一生触れないことは難しい。暴力や呪いは、避けれるかもしれないが。
自分の周りで死を意識する出来事や自分の寿命が近くなれば、死についていろいろ調べてしまうだろう。
その時、答えは見つからないだろう。
答えが見つかっても、その時にはもしかしたら、手遅れかもしれない。
自分の最後は、自分が思っているようにはならないだろうが、せめてどういう最後を迎えたいかは、今のうちから考えておくほうが、修正がききそうだ。