くもりのち晴【セミリタイア】

30代までにセミリタイアを目指して。

希死念慮。

こんにちは、くもりです。

 

私は、セミリタイアを目指しています。

その中で、結婚して普通の家庭を持ちたいと思ってたりします。セミリタイアと家庭を持つこと自体は矛盾していないのですが、本人の能力が低ければ両立はかなり難しいです。

 

私の総合的な能力は決して高くないので、セミリタイアしながら、家庭を持つことはできません。

自分の中で、理想と現実の間でギャップが大きくなると、時々死にたくなります。

 

これは、中学生くらいからの癖なのですが時々死にたいと思っていました。決して、自殺を行動に起こすことはなかったですが、いつも漠然と思ってました。

 

自殺したいと思う時は、大抵悩みがある時でした。でも、今、思い返しても理由は、大したことないんですよね。他人が聞いたら幼稚と思われる程度には。

 

だから、ストレスの受け取り方が間違っているんでしょうね。すぐ、死にたいと思うのは、ストレスに支配されて脳ミソがそれ以上考えれないんですよ。そして、その死にたいって状態から、死ぬために具体的に行動を起こすまでに、大きな壁があってその壁の前で立ち尽くしてる間に、状況が変化してストレスから一時的に解放されるってのが、続いています。

 

 

人生において、ストレスを感じない時はほとんどないし、そのため時々、死にたくなっていました。

 

今日、職場で鬱の人の話になり、鬱になれば、朝起きた時に死にたくなるって内容の話をしてました。

 

私はその時、普通は朝起きたら、死にたくならないのかって思いました。記憶では、中学の時から朝起きていつも死にたくなってました。

正確には、「起きるのが面倒なので、死んだら何もしなくてすむのなら、死にたいなー」って感じですけど。

 

自分が鬱病だとは、思いませんが、希死念慮は、昔からあると自覚してます。自分の性格が、めんどくさがりのくせに、完璧主義と理想主義をもっており、そこに能力が伴わないため、希死念慮をもってると思ってます。もしかしたら、自殺願望かもしれないけど。

 

今回、ブログに希死念慮について書きたくなったのは、希死念慮って調べると、自殺防止とか怪しい精神科医がやってるブログとかしかなくて、笑ってしまったからです。

 

希死念慮自体は心の動きの一つでしかない。

 

人が希死念慮を抱くことは自然なことです。

死にたくなったら死になさいって言う人は、いないのかな。

 

そんな人は、既に死んでるか、仙人になってるかな。笑

 

 

漠然と死を望むってことは、この世界に意味を感じてないんだよ。楽しいや嬉しいとか感じることは、あるけど、そんなことより、感情の土台である、この世界に意味を感じるってところがないんだよ。

もしくは、薄いんだよ、とても。

 

意味を感じないものを、わざわざしたい人はいないよ。

 

私が死なないのは、死に対する痛みが怖いからであって、ボタン一つで苦痛なく死ねるのなら、いつでも死んでる。

 

 

 

理屈で言うと、いつか必ずくる死を望むのは、それほどおかしくはない。必ず避けられないことをわざわざ後回しにするより、早く済ましたいってのは、そんなおかしくない。ほかにも、おかしくない理屈は、色々あるし作れる。

 

だから希死念慮は、自然なことだと思うけど、それを否定してる人が多いのは、希死念慮を肯定してる人は、そもそもそんな主張をわざわざしないのだろうな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

過ちては改むるに憚ること勿れ


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こんにちは、くもりです。

人生の目的を持っていると思いますが、目的なくして生きることは難しいです。

 

人に認められること、自由に生きること、幸せになること、、。

上の3つは、わかりやすい例ですが、他にも今の生活を維持したい、ストレスが少ない生活をしたいなど消極的な目的や、誰とも関わりたくない、人を傷つけたい、他人に依存して生きていたいなど、他の人から、見たら理解できない目的もあります。

 

意識してる・してないは、別としてそんな目的を人は、持っています。

一見合理性に欠ける人でも、その人の中で合理性があり、私達の考える目的とその人が考える目的にずれがあるため、おかしいと感じます。

 

いろんな意味で、目的とは、生きる上で大切です。

しかし、目的が一つとも限らないし、もしかしたら相反する目的を持っている人も中には存在するでしょう。

 

世の中は、人が理解できるように単純化されて整理されているようにみえますが、実際は理解するには、複雑なことが多いですから。

 

もし、生きている中で、自分が無意識の内に望んでいる目的と自分が考えている目的が解離していたり、自分の目的が矛盾を孕んでいたりした時、つまり言い換えれば、自分の目的が間違っていたと気づいたとき、人はどうすればいいのか?

 

過ちを改めて、生きるのか。

目的を改めて、生きるのか。

もしくは、何もせず外からの刺激をまって問題なくなるまで放置をするのか。

 

選択肢は、いくつかありますが、私は、過ちを改めて生きたいです。

 

私の生涯の悩みになりそうな結婚について、私はしないと決めました。

私が結婚に望む人は、世の中に結構、存在していますが、決して自分には届かないと理解しています。

 

妥協して結婚することは今の年齢なら、できると思いますが、人生の目的を達成するのに本当に、必要なのかと思います。(あと、10年もすれば、結婚自体できなくなりますが。)

 

私の人生の目的は、不幸ではない人生をおくることです。妥協の結婚は、その目的を達成するのに必要ないと思うので結婚はしません。

それより、仕事でのストレスを減らし、人とかかわらない生活をおくれれば、私の目的は達成されます。

 

ただ、最近思うことがありました。

私が本当の目的は、不幸でない人生をおくることではなくて、幸せになることなのではないのかと。

「不幸でない」と「幸せである」は、明確に違います。幸せである状態は、自明ですが、

不幸でない状態は、何もない状態or幸せである状態です。

 

妥協の結婚は、最終的に「不幸である」か「幸せである」かのどちらかに行き着くでしょう。私が目指している不幸ではない状態、厳密にいえば、何もない状態にはたどり着かないと思います。

 

私は、自分の能力の限界を決めつけています。

そこら辺にいるただの凡人であることを自覚しています。

だからこそ、自分の能力や環境で目指せる「不幸ではない」状態を目指していました。

 

ですが、近くで結婚で幸せそうにしている人がいてそれを感じます。みんなそれぞれ、悩みはありましたが総合的に判断して幸せと言い切れる状態でした。

 

私は、投資の情報を集める以外にsnsは使わないので、知り合いの近況を逐一把握しているわけではないですが、話を聞いていてその話をする様子が楽しそうでした。

 

これから、離婚する人もいるかもしれませんが、それは一時的ではあれ幸せであるので一旦おいておきます。

 

周りの話を聞いて思ったことが、私は不幸でない状態では満足できないのではないか、幸せになることでしか満たされないのではないかと。

 

もしそうなら、目的が間違っていたことになります。

今は、まだ目的が間違っていたと判断はしていませんが、目的が間違っていると確信した時、今とは違った行動をとる覚悟はあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり

こんにちは、くもりです。

もし、今、死んだら今を後悔するのか。

 

私はきっと後悔するのだろうなって予感があります。

今の生活に満足はしてないところが多々あるからです。

では、改善する気があるかと問われると、「はい」と答えます。

 

そして、そのため、行動していると思っています。ほかの人に比べればゆっくりですが、でも自分の望む生活に自分ができる範囲で進んでいます。

ただ、このペースなら、今の理想にたどり着くのには、10年は時間を要してしまいます。

 

この過程は自分が乗り切れる程度の苦痛しか待っていない道を選択しています。そのため、時間がかかるのですが、、、。

まあ、もし、自分の容量以上のこと降りかかってくるなら、お金と身ひとつでどこかに逃げますが。

 

自分が今死んで、後悔をしない方法は考えても思いつきませんでした。

どっかの人が言ってましたが、自分のやりたいことを、やっていれば後悔はないらいしいですが、それをみんながしたら、犯罪もふえるだろうな。

 

私は、死ぬ前ですら、臆病な性格がでて大胆なことはできないだろうな。

だから、きっと後悔はしますね。

ならば、どこを目指すのか。

 

今死んでも後悔ができるだけすくないように、頑張ります。

まったくのゼロにすることはできないだろうけど、なるべく少なくは、だれでもできると思ってます。

 

世間に対して無関心でいることをこころがけ、自分の決めたことこと以外に自分の脳みそをできるだけ使わないこと。そんな、仙人みたいな思考を続けていれば、しがらみを感じなくなってきます。いつ仕事をやめても、人間関係を切ってもどうでもいいかもと思うことも多くなってきます。

 

そして、最後には、自分の周りには大切なものとそれ以外にはっきりと分かれていて、なかなかすっきりとした気分で満足感を味わえます。この状態なら、死んでも多少の後悔で済みます。

でも、この考え方はリタイアした後ならいざ知らず、働いてるときに行き過ぎると、上司をぶんなぐってします。

まあ、上司をぶんなぐっても、給料がさがらないなら、それもありですが。

 

タイトルの「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」とは以下のリンクのような意味ですが、この真理とは、私の中では大切なものを認識している状態をさすのでしょうね。

朝に道を聞かば夕べに死すとも可なりとは - コトバンク

 

真理をなくしてしまったら、人は後悔だらけの人生になる気がします。

 

 

 

 

 

本当に才能や良い環境がないやつが人生を好転する方法

こんにちは、くもりです。

 

仕事をしていると思うことがある。

なぜ、自分は頑張って仕事をしているのに、報われないのだろうと。報われないことをするのに、なれてないからこんなことを思うんだろうけど。

 

今まで、リターンが期待できると自分が実感したものにしか力をいれたことがなかった。

でも、今の仕事ってストレスに対してリターンが見合っていない。

 

この仕事を選んだのは、自分だけど、本当に自分で決めた結果なのだろうか。他の人たちとの才能や環境で決まってしまったものでは、ないのか。

 

世間一般に言うと、成功している人は、自分の力だと強く思っている感じがある。

 

逆に、世間一般に言うと、失敗している人は、才能や環境で他人のせいにしている感じがする。

 

結局どっち、ある程度正しく、ある程度間違っている。

 

すべては、自分の力でどうにもならない。

だけど、自分の力もないやつは、何もできない。

 

で、結局才能や良い環境がないやつは、どうすればいいのか。自分の力もないやつは、どうすればいいのか。

全員この世から、さよならすればいい。

 

そうすれば、才能や良い環境のないやつが減って相対的にまた、落ちこぼれができてくる。

 

まあ、上のようにしたら、最後に1人しか残らないか。笑

 

 

 

本当に才能や良い環境がないやつが人生を好転する方法はないのか。

 

その答えは、未だに見つかっていない。

そもそも存在しないのかもしれない。

 

だって、人生が好転した時点で、そいつは、才能や良い環境があることになるからね。

 

 

数学では、問題に対して本当に解が、存在しているのか確認することが、重要である。解が存在をしていれば、それを探すだけだが、存在しなければ、永遠に探してもとけはしない。

 

 

本当に才能や良い環境がないやつが人生を好転する方法が、みつかればいいな。

 

 

せめて見つからなくてもいいから、そんな方法が存在していると確認できたら、人類は一歩進んだことになると思う。

 

 

 

 

 

まあ、前提条件で、本当に才能や良い環境がないやつがいないという可能性もあるか。

 

 

 

 

 

 

 

日々の徒然

こんにちは、くもりです。

 

最近、雪が良く降っています。寒くなると、やっぱり人肌が恋しくなります。

 

私は、セミリタイアするために、結婚を諦めないといけないと感じていますが、なかなか思い切りがつきません。

 

自分にも、昭和の夫婦のように、普通に結婚して子どもを育てることができると考えてしまいます。

 

そんなこと、ありえないのに。

私の本質は、面倒くさがりで人に指示されるのが嫌いです。

たとえどんなに正論だろうと、上から物を言われるのが死ぬほど苦痛なのです。

でも、仕事をしていれば上から物を言われるのが当たり前で、そんな当たり前を今は、我慢してます。でも、いつか我慢できなくなります。理性があるから、我慢てきるだけです。

 

こんな考えをしている人間を世間一般の人は、甘いと評するのでしょうね。

私もそう思います。自分勝手で、感情的で、とても幼い。

そんな人間は、親になったら、ろくな結果にならない。

 

子どもの不幸の大半は、私のような人間が親になったことで引き起こされていると考えています。なんの根拠もないけど。

 

ですが、こいつ親になったらやばいなって思う人が親になっているのを見ることは、往々にしてあります。なんで、自分の幸せのために、不幸な人間を平気でつくれるのか不思議です。

 

まあ、私も時間がたてば大人になって、考え方も変わって今まで理解できなかったことも理解できるように、なるのかもしれないと思うと、少し楽しみではあります。

 

 

 

 

【資産状況】2022年2月

こんにちはくもりです。

現在の資産の合計は以下のとおりです。

資産分類 金額 比率
投資信託(S&P500) 6,114,851 46.75%
預金・現金 4,255,056 32.53%
株式(現物) 1,731,557 13.24%
jリート 979,600 7.49%
合計 13,081,064 100.00%

 

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資産は、1300万になりました。

株の調子が良かったみたいですけど、また、利上げで1100万ぐらい下がるかなと考えてます。

 

そのため、預金は多めにとってます。

なかなか、お金を貯めるって難しいですね。

 

資産1億円まで、凡人のまま貯める人っているんですかね?

貯める過程で凡人を卒業しそうです。

 

セミリタイアやFIREしている人は、初めのほうは参考になるけど、だんだんその異常性に気づいて、参考にならなくなります。

 

人生は大富豪と一緒で自分に配られた手札は、平等ではないし、そんなに強いものを持ってないことに気づく。それは、環境や才能の差で、積み上げてきたものの差で。

 

リタイアした人達の異常性に気づかないとすれば、それは自分の物差しが短すぎるだけだと思う。

 

まあ、少ない資金でリタイアした人は、再現性はあるし、凡人の域をでてないから、参考になることも多いと思う。ただ、多い資産でリタイアした人ほど、洗練されてないし、無駄が多くて非効率なことをしている。あと、今リタイアしようとしている人も参考になる。

 

考え方等を自分と比較できてそこに気づきがある。自分が劣っているところや、優れているところをわかるようになる。もし、多い資産でリタイアした人と比べると比較対象が凄すぎて自分の長所も短所も、すべてが短所にみえる。プロスポーツ選手を見た後に、アマチュア選手をみてその差異がわかりにくくなるみたいなもの。

 

確かに、プロスポーツ選手は参考になることも多いけど、レベルが違いすぎて再現しにくい。でも、自分よりちょっと上の選手ぐらいなら努力すれば再現できる。

 

私は、自分を変えたいと思うとき無理にトップを参考にしない。

それは、もちろん自分でもできると思えば、参考にするけど、、。

 

だから、このブログも、他のセミリタイアを参考にするし、他のセミリタイアの参考になれるようにしたいと思ってます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

メメントモリ 

こんにちは、くもりです。

 

自分について考えるときに、よくテーマにするのは自分の最後のことです。

メメントモリ

メメント・モリ - Wikipedia

 

「死を忘ることなかれ」

人に感謝するときに思うことが、この人が生きているうちに感謝を伝えたい。

死ぬ前までに伝えたい。

 

家族ってとても、近くにいて普段してもらっていることをあたり前に思ってるけど、

それが尊いことだと感じるときって、大抵失った後です。

 

死を意識したとき、終わりが見えたとき、それまでの当たり前が覆って見方が変わります。

 

それは、なぜか、、。

 

いままで、生きてなかったから。

 

自分の人生を本気で考えず、周囲の人間や環境に流されてただ、息をして、食って、寝て、娯楽を享受し、いやなことに脊髄反射的に対応していただけ。こんな人は大勢いる。これは、社会的に成功しているかどうかは関係ない。自分の才能に振り回されている人間だって環境と才能と運のどれかがあれば、成功している。でも、死には誰だって勝てない。今のところは、、。

 

結局、行きつくところは死のみ。

 

行きつく場所が決まっているのに、その瞬間を想像していない。その瞬間をどう過ごしたいかで、自分のやりたいことを決めればいいのに。そこから逆算している人は、あまりいない。まあ、死は瞬間の出来事だから、どうでもいいから考えてないのかもしれないけど。

 

でも、死ぬ前ってやりたいことがたくさん出てくるらしいから、今から考えておいても損はないだろうね。

 

日本の自殺 孤独と不安の解明(大原健士郎 著) / 文生書院 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」

 

上の本とか見てると、昔の日本も、今の日本もそんなに変わらないのかもしれない。

私は、最後は一人で死にたいと思ってる。

 

誰かに、迷惑をかけたくないし、基本的に誰かに認知してほしくない。

全然知らない人ならいいけど、親しい人に最後を知られたくない。

 

そして、そんな最後を迎える決断をして実行した自分を気に入ったまま亡くなりたい。

 

 

幼い時に、呪いって書いてふざけて遊んでたら、縁起が悪いから怒られた記憶がある。

でも、死や呪い、暴力など、社会的にふれてはいけないものについて、教えることは重要だとおもう。

 

なぜなら、知らないことが一番恐ろしいことだから。

 

知らないことを、一生知らないまま終えることができれば、それは幸せだ。

昔の普通の人はそれで、一生を終えることができた。

 

でも今の人は、無理だろう。エアコンのない生活は無理だし、冷蔵庫や洗濯機だってない生活は無理だろう。

 

それと同様で、死について一生触れないことは難しい。暴力や呪いは、避けれるかもしれないが。

自分の周りで死を意識する出来事や自分の寿命が近くなれば、死についていろいろ調べてしまうだろう。

 

その時、答えは見つからないだろう。

答えが見つかっても、その時にはもしかしたら、手遅れかもしれない。

 

自分の最後は、自分が思っているようにはならないだろうが、せめてどういう最後を迎えたいかは、今のうちから考えておくほうが、修正がききそうだ。